ローダーイメージ
Night Mode Night Mode
Day Mode Day Mode

立子山

「竜子山」とも記される戦国期から見える地名で、天正十三年、伊達政宗の塩松進攻の際には、伊達成実が当地の野城に布陣し、大内定綱との戦端が開かれた。

立子山の来歴

貞山公治家記録

天正十三年(1585)閏八月条

◯閏八月乙西小七日乙亥桑折治部宗長ヘ御飛札ヲ賜フ今度田村ヘ御合カトシテ各遣サル所ニ取分ケ相稼ギ殊ニ碩斎下知ニ被任ノ由御大慶二思召サル且又伝説ニ飯野ノ内刈松田城主小浜ニ向テ手切ニ及フノ由其聞ヘアリ始末ニ因テ重テ仰越サルヘキ旨著サル是ヨリ前 公塩松ヘ御出馬大内退治シ給フヘキ由田村ヘ密ニ仰合サル俄ニ会津ト御戦ニ付テ塩松ニ出馬シ給ハス因テ大内退治ノ義ハ田村ヘ任セヲル旨仰ヲレ御名代ニ伊達相模宗澄入道殿碩斎ヲ命シ桑折宗長以下ノ輩ヲ差副ヘ田村ヘ加勢トシテ遣サル宗長特ニ相働ク因テ御書ヲ賜フ〔碩斎以下田村加勢破遣シ月日不知〕◯成実ヨリ飛脚ヲ以テ刈松田城主青木修理 当家ニ奉公ノ為メ今日小浜ニ向テ火ヲ挙ルノ由註進セヲル大内先年ヨリ田村境ノ諸城主ヨリ人質ヲ取リ置キ殊ニ今度 当家ニ相背クノ後塩松領中ノ城主ヨリモ皆人質ヲ取リ置ケリ青木モ子〔五歳〕弟〔十六歳新太後改掃部〕ヲ証人トシテ小浜ヘ指越ス然ルニ成実ノ誘メニ依テ 公ヘ奉公セント欲スレトモ子弟ヲ棄ル事無念ニ存シ小浜ヨリモ人質ヲ取ルヘシト思ヒ大内家老ノ子中沢九郎四郎大内新八郎大河内次郎吉ヘ書状ヲ以テ爰元只今追鳥狩ノ時分ナリ慰ノ為メニ参ラルヘシト申遣ス何レモ若輩何ノ了簡モナク一昨五日ノ晩刈松田ヘ来リ昨六日ノ朝追鳥猟シテ雉数多捕獲タリ料理シテ酒宴夜半ニ及フ時ニ修理其座ニ出テ何レモ沈酔ト見ヘタリ怪我モ危シ兎角刀脇指ヲ賜ハレト云テ無理ニ取レリ其後三人殊ノ外ニ酔臥セリ是ニ於テ修理家人十人許リニ具足ヲ着セ三人ノ臥タル所ヘ押懸ケ呼起シテ某事備前殿ニ恨ミ有テ米沢ニ奉公ス各存シノ如ク子弟ヲ人質トシテ小浜ニ差置キヌ各ヲ留置テ証人替ニスヘシ身命ハ気遣セラルヘカラスト云テ三人ヲ捕ヘ足械ヲ打テ差置キ今日小浜ニ向テ火ヲ挙ルノ由成実ヘ註進スト云云◯公成実註進ノ趣聞召サレ御出馬マテハ遅延ナリト先ツ小梁川中務盛宗入道泥蟠斎白石右衛門宗実原田左馬助宗時浜田伊豆景隆ニ命シテ差遣サル四人ハ飯野ノ内刈松田近所ニ在陣シ成実ハ龍子山ニ在陣セラル

浜田伊豆ハ大膳改名ナリ去年十一月以後名ヲ改ム年月不知

『伊達家治家記録 第1』

関連記事

RELATED ARTICLES
市指定史跡 苅松田城跡
RELATED ARTICLES
小手森城跡

立子山野城へのアクセス

  • 〒960-1321 福島県福島市立子山野城
  • JR東日本「福島駅」よりバスで「野城」下車、徒歩10分
  • 東北自動車道「福島西IC」より車で25分

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

書き出しに戻る
Close