ローダーイメージ
Night Mode Night Mode
Day Mode Day Mode

市指定史跡 守山城跡

田村庄司氏の没落後、平姓田村氏が三春城に移るまで本拠とした城館で、田村清顕が没すると伊達政宗が領し、一時期佐竹氏への備えとして白石宗実と片倉景綱が配された。

市指定史跡 守山城跡の来歴

守山城跡

守山城跡は、石垣を持つ城跡として市内で唯一のものであり、二の丸と三の丸との間に、幅二十五mの堀跡が残されており、堀跡には長さ七十m、高さ六mにわたって石垣が積まれています。

石の積み方は、大小の自然石を重ね、大石の隙間に小石を積み上げる「野面積み」(古式穴太積み)という方法です。

田村地域が田村氏の領地から、一五九一(天正十九)年に蒲生氏郷の領地に変わると、守山城は、会津若松城の支城となり、蒲生氏郷の家臣田丸具直が支城主となりました。また、一五九八(慶長三)年に上杉景勝の領地になると、家臣の須田長義、本庄繁長、竹俣利綱が支城主となり、一六〇〇(慶長五)年に蒲生秀行の領地に変わると、家臣の蒲生郷成が支城主となりました。一六〇九(慶長十四)年に蒲生郷成は浪人となるので、守山城の石垣は、一五九一(天正十九)年から一六〇九(慶長十四)年までの間に構築された石垣であると考えられます。

その後、一六一五(元和元)年の一国一城令により、守山城は破城(城を故意に壊して使えなくすること)されたと考えられます。

平成十二年度から平成十五年度にかけて第一次~第四次発掘調査が行われ、堀跡や石垣のほか、礎石建物跡や十六世紀後半から十七世紀初めごろに製作された陶磁器類などが確認されており、本市の戦国時代から安土桃山時代の歴史を知る上で、極めて貴重な遺跡です。

郡山市教育委員会

『現地案内板』より

貞山公治家記録

天正十六年六月条

◯九日辛卯田村守山城へ白石右衛門片倉小十郎安積路へ浜田伊豆景隆ヲ差遣サル佐竹殿出張ニ就テ其備ノ為メナリ◯砂金又次郎実常在所柴田郡砂金ヨリ山形領へ草調儀シ首一討捕リ献上ス太刀撃セシ者ニ板物ヲ賜フ◯木村へ富塚近江安久土へ七宮伯耆ヲ差遣サル

『伊達家治家記録 第1』

関連記事

RELATED ARTICLES
町指定史跡 三春城跡

市指定史跡 守山城跡へのアクセス

  • 〒963-1155 福島県郡山市田村町守山三ノ丸
  • JR水郡線「磐城守山駅」より徒歩12分
  • 東北自動車道「郡山南IC」より車で22分
  • 東北自動車道「須賀川IC」より車で17分

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

書き出しに戻る
Close