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郡山城跡(稲荷館)

天正十六年(1588)佐竹・蘆名連合軍が郡山に侵攻、政宗は田村氏に属する郡山城主郡山頼祐を救援すべく自ら出馬し、郡山城を焦点として両軍が対陣した。

郡山城跡の来歴

福島県中通り中部、阿武隈川西岸に位置し、古代安積郡の郡衙があったのが地名の起こりという郡山市。市域中央部、逢瀬川南岸の平地に旧安積郡郡山村(現郡山市大町ほか)があり、近世、奥州道中の宿駅、郡山宿が置かれた東側には、戦国期に当地を本拠とした郡山氏の城館、郡山城(稲荷館)があります。

天正十六年(1588)田村家中の抗争から相馬・伊達両氏の交戦に発展すると、劣勢となった相馬義胤は佐竹義重・蘆名義弘・岩城常隆らに安積郡への出馬を要請。六月八日に佐竹義重は須賀川に着陣、翌九日には石川昭光に小原田に陣を張ることを伝え、同十一日同陣する蘆名氏らと共に安積表に進軍しました。

連合軍は、佐竹義重・義宣、蘆名義広、白川不説(義親)、石川昭光、二階堂・岩城兵ら八千余騎であったとされ、須賀川から真っ直ぐ北上はせず、伊達方の諸城を避けるよう大きく西に迂回して大槻を経由、六月十二日佐竹・会津勢が阿久戸阿久土・阿久津に兵を出すも、これを白石宗実と片倉小十郎が鉄砲で撃退しました。

連合軍が大槻表へ進軍との報を聞いた政宗は、安積宿・本宮を警戒、宮森城から二本松の杉田に陣を移し、本宮への進軍はないと判断すると、久保田窪田の山王山から敵情を視察。この時、連合軍は郡山の西の高台に要害のような築山を二つ築き、小旗を立て、城下町を見下ろしながら鉄砲を打ち掛けたといいます。

これにより政宗は、十六日卯の刻、現在「陣場」の地名が残る福原の前の久保田境に本陣を移し、夫々の陣場刻を行った上で、成実には山王山を陣場にと命じました。十六と十八日、連合軍は読み通り山王山筋に攻めてくるも、堀を掘り、五尺余の土手を二重に築いたこの要害を落とすことは出来ませんでした。

郡山の孤立を企てた連合軍が久保田・郡山両城の間に二つの砦を築くと、対する伊達軍も逢瀬川を外堀に見立てて堀を掘り、土塁を築くなどして久保田に砦を普請。政宗は、孤立した郡山城に籠って連合軍と対峙する郡山太郎右衛門頼祐へ書状を送り、連日連夜、兵糧・玉薬を差し入れ、郡山勢を励ましました。

伊達軍の久保田砦が築かれると、政宗は各侍大将を召し寄せ、砦の番をくじ引きによって決定させようとするも、片倉景綱がしきりに成実との組み合わせを望んだため、小十郎・成実の両人が同番となりました。七月二日初番の富塚近江・遠藤文七郎番は何事も無し。翌三日の田村孫七郎・白石若狭番も恙無し。

七月四日は小十郎・成実番のため、必ず何事かあると各陣中で備えを固めていたところ、連合軍の長沼城主新国貞通が両陣営の砦間を通過、逢瀬川河畔に接近しました。新国貞通を砦の中に追い入れようと小十郎・成実が兵を出したのをきっかけに、連合軍は両砦から打って出て、両軍総出の合戦となりました。

異変に気付き、政宗とともに本宮城にいた伊藤肥前守重信が駆け付けるも、入り乱れた両軍を引き離すのは容易ではなく、それならばと五輪塔の旗印を掲げ、敵陣へ分け入った勢いに乗じて敵味方を振り分けるべく縦横に走り回りましたが、敵陣背後で馬を返した所を敵の槍で突かれ、遂には討死となりました。

伊達軍は肥前を撃たすなと死闘を繰り広げ、連合軍は引き退きました。この日の戦いは午前八時から午後二時に及び、連合軍二百余人、伊達軍五十余人が戦死したといいます。七月二日に岩城常隆・石川昭光が和睦調停に乗り出し、十六日政宗と義重は使者を介して御神水を交換、廿一日双方が陣払いしました。

尚、かつて郡山城の位置は「郡山館跡」として遺跡登録されている桜木1丁目・2丁目(幕ノ内)に比定する見解がありましたが、佐竹・蘆名勢と伊達勢の動き、両陣営の砦の位置、新国貞通の動き、伊藤肥前が討死した場所等により、駅前1丁目(稲荷)の「稲荷館跡」であったことが明らかになっています。

また、天正十六年六月九日付の石川昭光宛佐竹義重書状によれば、「昨日当地須賀川へ進馬候、明後十一日小原田表へ可令張陣候」とあり、この予定通り義重が陣を敷いたとすれば、香久山神社がある小原田4丁目「小原田館跡」付近が佐竹本陣であった可能性があり、社殿背後には今も土塁の痕跡が残ります。

蘆名本陣は定かではないものの、かつて郡山城に比定されていた「郡山館跡」のすぐ東側を夜討川が流れ、主戦場となる東側の防備が固められていること、「天正日記」六月十七日条に白石宗実が会津御陣所を夜討ちしたと記されていることなどから、「郡山館跡」が蘆名本陣だった可能性も指摘されています。

伊達天正日記

天正十六年(1588)六月二日条

さる 二日

天気よし、

ひるちふん雨少ふり申候、大越へ草いたし、かの又方首一ッ上被申候、御てつほう御めし候、はん方御てつほうあそはされ候、あいてよこしゆ・大宮、八幡殿より御しゆまいり申候、夜入雨ふり申候、御やくらニて御しゆめし上られ候、わたりあハの守・玉井ゆうてつまいり御申候、青木大和守、田村へ御使ニおほせつけられ候、

天正十六年(1588)六月五日条

い 五日

天気雨少ふり申候、大越江成実御代官にて御はたらき、町寺まてやかせられ候、其後小野衆出会申候処へ、こなたよりおいくたし、にのくるハまてはきいれ、くひ十一うつとり申候、こはたまてとらせられ候、其上御小旗はらせられ、かちときつくらせられ候、その日宮森まてさうたいうちかへさせられ候、

天正十六年(1588)六月七日条

うし 七日

天気雨ふり申候、

本宮へ御一家・御一族衆各被指越候、御不断之御てつほうめし上られ候、大越江草いたし源三郎方首一ッもたせ上被申候ヲ 上意様大わきさしにてかうへハらせられ候、其後七伯江御さかなにさせられ、渡辺・下十衛門おほせつけられ被指越候、昼さかりより雨も晴申候、御てつほうほしうたせられ候、御あいてに横修・中主まいり被申候、

天正十六年(1588)六月九日条

う 九日

天気よし、

守山江白石殿・小十郎、あさかじくへ浜田被指越候、砂金より山形江草いたし首一ッ上申候、彼うち申候者ニ御板物被下候キ、木村へとミつかあふミ被指越候、あくとへ七宮伯州、

天正十六年(1588)六月十二日条

 六月十二日

一天気くもり申、雨ハふり申さす候、宮森より御馬めしいたされ、本宮のうへの山ニ御そなへとらせられ候、佐・会衆、安久津へ御はたらき□せうちこされ候ところを、こなたよりいてあハせ、白石・小十郎てつほうにておい上被申候よし申上られ候、ふくはらよりあいつ衆うち申首二ッ上申候者ニ、御いたの物両人に被下候、相馬へ草いたし、中嶋伊勢首三ッ上被申候、笹川よりくひ二ッ上被申候、両人におうごん被下候、成実御越候、

天正十六年(1588)六月十三日条

 十三日

一天気くもり、雨少つゝふり申候、佐竹殿ひからあしく候とて御はたらきさせられす候、こなたよりハ本宮近辺にてめしいたされ候、はんかた佐竹御陣所よりそと御やうすきこへ申候、ふくはらよりくひ一ッ上被申候、

天正十六年(1588)六月十四日条

 十四日

一天気くもり申候、雨少ふり申候、義重くほた御はたらき候ヲ、郡山より出合、てつほうかけ申候間、そのまゝうち上られ候よし申候、こなたよりハ本宮おきへ御そなへとらせられ候、それよりうち上られ候、たかもり殿御越候、粟野方も参られ候、

※【たかもり殿】宮城郡高森城主留守上野介政景雪斎
※【粟野方】名取郡北目城主粟野大膳国顕

天正十六年(1588)六月十五日条

 十五日

一天気よし、たかくらうちとをされ、御そなへとらせられ候、それにて御談合御さ候、雪斎・もりしけ・ていはん・白石・粟野はしめと申、おの〳〵被参候、佐・会衆郡山へ進陣させられ候間、こなたよりも御たいちんなされへきよし被仰出、其まゝうちあけられ候、

天正十六年(1588)六月十六日条

 十六日

天気よし、佐竹衆と御たい陣させられ候、佐・会相人数山能山へうちかけられ、相まとひのてつほうにてつるい上候うたせられ候、こなたよりハ以上ニはなさせられす候、無何事うちあけられ候、

天正十六年(1588)六月十七日条

 十七日

天気吉、御陣所のふしん被仰付、ついちつかせられ候、あさ川大越よりはたらき申候を大越方いおとし申候、家中之者三人うたせ、くひ三ッあけ被申候、夜ニ入、会津御陣所へ白石との草被申、くひ一ッあけ被申候、あさ川へ瀬上□てつほうこし申候、明よし被仰付候、相馬へ草いたしまるもりよりくひ二ッあけ被申候、

天正十六年(1588)六月十八日条

 十八日

天気吉、佐竹殿うち出され三能山へうちあけられそなへとらせられ、其上相てつほうにてつるいかけさせられ候、こなたよりも同前ニうたせられ候。其まゝうちあけられ候、屋ふき左馬助、石川殿より御使ニ被指越候、はんニ雪斎御ふるまい被申候、御相伴衆伯蔵・七伯・即休斎・左馬助参御申候、石むちり高玉へ遠藤するが草いたし、くひ一ッあけ被申候、

天正十六年(1588)六月十九日条

 十九日

天気よし、上野彦五郎・さとのもの佐竹御陣所へにけ申候旨、路次よりひきかへし被申を、上意様御てつほうにてあそはされ候、御あいて大内方・泥蟠斎・盛重・左馬の助・小十郎・よこしゆ・大宮まいり被申候、ひとゝめおほせかけられ候、大波殿下人にけ候ヲこほり山よりひきかへし、はん方てつほうまとに又させられ候、御あいてニ雪斎、半ニくほたにてかつせん御さ候て大内方か中あいつ衆一人うち申、上申候、相馬衆金山へはたらき申候ヲおいかけおもてのさふらい十五人うち申、くひ上被申候、もりたねめし馬まてのりすてられ候、さゝ川よりおつきうへ草いたし首二ッ上被申候、両人に代物被下候、

『戦国資料叢書 伊達史料集(下)』

政宗記 天正十六年七月四日条

窪田番手持附矢文事

(前略)政宗は本宮の要害に御座て、行水をし給ひける由、田舎道三十里なれども、鉄砲頼りに聞へければ、伊東肥前を召て「南に当て鉄砲頻りに聞ゆるは、如何様にも不審なり、急ぎみて参れ」と宣ふ、後聞はば、前畏て罷立、政宗聞給ふ様に、成実と景綱を同番に成し給へば、事出間敷と覚し召けるは御不覚也とて、其より鎧かためて打立ける由、窪田へ馳来て景綱、成実取組なるを、肥前敵味方の境を乗分、引取んとしけれども、乱合たる取合なれば、引取ける事不相叶肥前も余り深入して討死をなす、故に政宗も本宮より早蒐し給ひ、自身助合給ふ、七月四日の辰の刻より合戦始まり、未の刻迄、取合雑兵共に頸二百余討取、味方も五十余討死なり、雖然敵の取手へ両度迄追入、味方は一芝も不被取して物別れなり(後略)

『戦国資料叢書 伊達史料集(上)』

富田古文雑集 伝郡山合戦矢文

一筆申進候、此度之確執、永々之事候、御互決戦と申茂無之万民之営ニも可被有当惑事ニ候、仍而者其方望を以、半乎我等ニ相代候、則以前啓相洩候、早々有無遂決戦之旨、御計第一と御念申迠候、不具謹言、

七月三日      片倉 景(花押)
          伊達 成(花押)

     富田 美
     平田 左
          御陣所

一箭書被読候、則番手御望被罷出候条至極候、我等決戦兼而所望也、御辺御才覚を以被討出候事、格別ニ候間、向出催戦御計可有之候、勝利者可任時之運存候、早々謹言、

七月三日     富田隆実(花押)
         平田氏範(花押)
     伊達殿

『郡山市史 第8巻 資料(上)』

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参考文献

  • 角川日本地名大辞典編纂委員会編(1981)『角川日本地名大辞典7 福島県』角川書店.
  • 庄司吉之助・小林清治・誉田宏編(1993)『日本歴史地名体系7 福島県の地名』平凡社.
  • 藩租伊達政宗公顕彰会編(1938)『伊達家治家記録』藩租伊達政宗公顕彰会.
  • 小林清治(1967)『戦国資料叢書 伊達史料集(上)』小林清治校注, 人物往来者.
  • 小林清治(1967)『戦国資料叢書 伊達史料集(下)』小林清治校注, 人物往来者.
  • 郡山市編(1975)『郡山市史 第1巻 原始・古代・中世』郡山市.
  • 郡山市編(1973)『郡山市史 第8巻 資料(上)』郡山市.
  • 広長秀典(1999)「郡山城の再検討(現比定地の誤りと本当の郡山城の位置と縄張について)」,『福島史学研究』69, pp31-45, 福島県史学会.
  • 郡山市史編さん委員会編(2004)『郡山の歴史』郡山市.
  • 郡山市史編さん委員会編(2014)『郡山の歴史』郡山市.
  • 垣内和孝(2015)『歴春ブックレット安積2 郡山の城館』歴史春秋社.
  • 垣内和孝(2017)『伊達政宗と南奥の戦国時代』吉川弘文館.
  • 南奥羽戦国史研究会編(2020)『伊達政宗 戦国から近世へ』岩田書院.
  • 公益財団法人郡山市文化・学び振興公社文化財調査研究センター編(2022)『稲荷館跡(郡山城)〜第1次発掘調査報告書〜』郡山市教育委員会.

稲荷館跡(郡山城)へのアクセス

  • 〒963-8002 福島県郡山市駅前1丁目
  • 東北本線「郡山駅」より徒歩7分
  • 東北自動車道「郡山IC」より車で20分

郡山館跡へのアクセス

  • 〒963-8021 福島県郡山市桜木1丁目
  • 東北本線「郡山駅」より車で8分
  • 東北自動車道「郡山IC」より車で11分

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