Night Mode Night Mode
Day Mode Day Mode

安子島城跡

安積伊藤氏の庶流、安子島佑高が居城としていたが、政宗の会津侵攻に先立って伊達・蘆名両氏の古戦場となった。

安子島城跡の来歴

福島県中通り中部、郡山盆地の中心で、阿武隈川西岸に位置する郡山市。市域西部、阿武隈川の支流五百川流域に旧安積郡安子島村(現郡山市熱海町安子島)があり、その五百川中流域南岸の河岸段丘上には、安積伊藤氏の支城で、戦国末期における伊達・蘆名両氏の古戦場となった安子島城跡があります。

二本松と会津を結ぶ会津街道が走り、城下で長沼、白河へ向かう街道が分岐するなど、要衝の地に立地する安子島城は、東西約六〇〇㍍、南北約一〇〇〜二〇〇㍍、東館(字舘前・桜畑)と西館(字南町)からなる複郭式の城館で、いずれも北側の段丘岸を堅固な切岸とし、両館は深い浸食谷で隔てられていました。

戦国期になると安積伊藤氏は弱体化し、安積郡は蘆名、二階堂、田村、伊達氏ら近隣の有力諸大名に侵され、庶流家とみられる安子島氏もその渦中に巻き込まれていきました。文亀元年(1501)四月には、蘆名、二階堂両氏が出兵して安子島は落城。捕らえられていた安子島城主は、同六年罷免されて本宮に移りました。

天文元年(1532)頃の安子島氏は伊達、田村両氏の影響下に置かれるも、永禄二年(1559)頃から蘆名氏に服属。天正十六年(1588)田村氏が押さえていた当地などの兵を率いて大内定綱が伊達氏に反旗を翻し、伊達成実の守る苗代田を攻めるも、政宗は新たに百四十貫文の知行と起請文を定綱に与え見方につけています。

天正十七年(1589)二月二十五日の大内定綱宛伊達政宗書状に、「任先約ニ、安子島之地一宇可進候」とあり、蘆名氏討伐後、政宗は当地を大内定綱に与えることを約しています。同年五月、政宗は会津侵攻に先立ち、蘆名氏の属城であった安子島城を攻め落とし、城主安子島祐高は開城降伏して会津に落ち延びました。

天正十八年(1590)秀吉の奥州仕置により領主となった蒲生氏郷は、蒲生源左衛門を城主として安子島に置くも翌年には廃され、慶長三年(1598)蒲生氏に代わって上杉景勝が会津に封じられました。尚、同五年(1600)の慶長出羽合戦の際、一時期直江兼続が指揮を執った浅香城は、この安子島城だったと考えられています。

関連記事

Related Articles
高玉城跡

安子島城跡へのアクセス

  • 〒963-1304 福島県郡山市熱海町安子島舘前
  • JR「安子ヶ島駅」より徒歩5分
  • 磐越自動車道「磐梯熱海IC」より車で10分

参考文献

  • 角川日本地名大辞典編纂委員会編(1981)『角川日本地名大辞典7 福島県』角川書店.
  • 庄司吉之助・小林清治・誉田宏 編(1993)『日本歴史地名体系7 福島県の地名』平凡社.
  • 本宮町史編纂委員会編(2002)『本宮町史 第1巻 通史編1 原始・古代・中世』本宮町.
  • 本宮町史編纂委員会編(1999)『本宮町史 第4巻 資料編1 考古・古代・中世』本宮町.
  • 福島民報社編(2007)『武者たちの舞台 ふくしま紀行 城と館 上巻』福島民報社.
  • 垣内和孝(2015)『歴春ブックレット安積2 郡山の城館』歴史春秋社.

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

最上部に戻る
Close