福島城跡の来歴
福島県中通り北部、阿武隈川と荒川の合流点北側、現在福島県庁などが建ち並ぶ一帯に、かつて杉妻城、大仏城とも呼ばれた福島城がありました。敷地内の紅葉山公園は二の丸御外庭と呼ばれた庭園で、御茶屋と呼ばれる茶室が建てられていましたが、明治になると跡地へ板倉神社が移されました。
福島城にあった殆どの堀と土塁は消滅してしまいましたが、福島県庁西庁舎の南側から福島城西門南土手にあたる阿武隈川に向かって、鉤型に延びる土塁の一部が現存しています。かつての土塁西側は空堀となっており、土塁の高さは約2〜3メートル、旧大島要三邸(杉妻会館)の庭として利用されていました。
応永二十年(1413)四月、伊達氏十一代持宗(松犬丸)が掛田城主懸田定勝と挙兵して大仏城に立て籠もったため、鎌倉府が派遣した二本松城主畠山国詮と戦いました。大仏城の名は、杉妻大仏と呼ばれる仏像が安置された杉妻寺があったことに由来し、福島城土塁跡から出土した宝塔がそれを物語っています。
政宗の祖父である伊達晴宗は、父稙宗との内紛から南奥羽の有力者を巻き込んで戦った天文の乱のあと、本城を米沢に移し、永禄八年(1565)家督を輝宗に譲って隠居。五十九歳で没するまで、この杉妻城で余生を過ごしました。晴宗の死後、夫人の久保御前は栽松院と称し、末子の直宗と杉妻城に残りました。
豊臣秀吉の奥州仕置により、蒲生氏郷に会津、信逹、田村地方などが与えられると、客将である木村吉清は大森城から杉妻城に移り、名を「福島」と改め、同時に城下町の整備を行いました。慶長三年(1598)上杉氏の領地になると、福島城代として水原親憲、のちに本庄繁長を配し、政宗の侵入に備えました。
慶長五年、関ヶ原での東軍勝利の報を受けた政宗は、旧領である信達地方を奪還するべく出陣。伊達郡国見山に本陣を構え、桑折から福島へと進軍。福島城の本庄繁長、梁川城の須田長義らとの合戦を繰り広げました。翌年、景勝は米沢へ移封となるも繁長は城代として残り、慶長十八年、福島で永眠しました。
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福島城跡へのアクセス
- 〒960-8065 福島県福島市杉妻町
- 東北本線「福島駅」より徒歩14分
- 東北自動車道「福島西IC」より車で11分