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琥珀山 宝積寺/伊達晴宗公墓所

政宗の祖父にあたる奥州探題伊達晴宗が祖先の霊を弔い、戦没した家臣ら霊を慰めるべく杉目城内に建立した由緒ある名刹。

琥珀山 宝積寺の来歴

福島県北部、中通り低地帯の北部に位置する県庁所在都市、福島市。市の南東部、北流する阿武隈川とその支流荒川の合流点北側に旧信夫郡福島村(現福島市杉妻町・舟場町ほか)があり、福島城下を形成する町場の東端、阿武隈川に面する現舟場町には、伊達氏十五代晴宗の菩提寺である琥珀山 宝積寺があります。

政宗の祖父にあたる伊達晴宗は、弟実元の上杉家婿入りに反対し、父稙宗を相手に南奥羽の有力者を巻き込んで争った天文の乱のあと、永禄八年(1565)頃、四十七歳の若さで輝宗に家督を譲りました。後に晴宗は夫人栽松院と末子の直宗を伴って杉目城(福島城)に移り、十二年ほどの余生を当地で過ごしました。

晴宗は、祖先の霊を弔い、合戦によって亡くなった家臣の霊を慰めるべく、永禄年間(1558-1569)城内の一隅に宝積寺を建立。三千数百坪の境内地に七堂伽藍がそびえ立ち、二十一坊には数十人の修行僧が常住していたとされるも、度重なる兵火に見舞われ、往時の面影を偲ばせる什物、記録などは残っていません。

天正五年(1577)十一月十九日、晴宗は杉目城で発病し、その報を得た輝宗が米沢から駆け付け父を見舞いましたが、同年十二月五日、五十九歳で没しました。法名は乾徳院殿保山道祐居士、導師は資福寺の虎哉和尚で、今は本堂真向かいの老梅の根元、杉目城を眺めるように建つ五輪塔の下で静かに眠っています。

晴宗の死後、杉目城には栽松院と杉目氏と称していた直宗が暮らしていましたが、天正十二年(1584)に直宗も没し、晴宗と同じ宝積寺に葬られました。その後、未亡人となった栽松院は杉目に留まって二人の墓所を守りましたが、その居所は従来通りの杉目城であったか、別の場所に移ったのかは定かではありません。

かつて、市内郷野目には「旧殿」の地名が残り、栽松院屋敷跡であったとの伝承が残ります。天正十八年(1590)八月九日、八丁目城に来ていた浅野長吉(長政)は「杉の目村之内、一構の所、政宗うは居住の儀ニ候間、陣取之儀、可在御用捨者也」との禁制を出しますが、この居所は旧殿の地であったとも考えられています。

天正十七年(1589)政宗は須賀川城攻めの際、晴宗長女で須賀川城主二階堂盛義夫人の大乗院を捕らえ、落城後に栽松院のいる杉目城に送りました。大乗院は伊達氏の庇護を受けるのを嫌い、はじめ岩城氏、後に佐竹氏のもとに身を寄せるも、佐竹氏の秋田移封に及んで須賀川に戻り、慶長七年(1602)に没しました。

天正十九年(1591)伊達氏の岩出山移封に伴って当地が蒲生領になると、栽松院は晴宗と直宗の墓所宝積寺を後にして旧宮城郡根白石村(現泉区根白石ほか)に移り、文禄三年(1594)に没しました。政宗は宝積寺から能山和尚を招いて屋敷跡に同名の宝積寺を建立、後に連坊小路に耕徳山 裁松院を建立しました。

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琥珀山 宝積寺へのアクセス

  • 〒960-8103 福島県福島市舟場町3−16
  • 東北本線「福島駅」より徒歩18分
  • 東北自動車道「福島西IC」より車で14分

参考文献

  • 福島市史編纂委員会編(1970)『福島市史 第1巻 原始・古代・中世(通史編1)』福島市教育委員会.
  • 角川日本地名大辞典編纂委員会編(1981)『角川日本地名大辞典7 福島県』角川書店.
  • 福島市仏教会・福島市寺院名鑑刊行会編(1984)『福島市寺院名鑑』福島市仏教会・福島市寺院名鑑刊行会.
  • 庄司吉之助・小林清治・誉田宏 編(1993)『日本歴史地名体系7 福島県の地名』平凡社.
  • ふくしまの歴史編纂委員会編(2006)『ふくしまの歴史2 中世』福島市教育委員会.
  • 村川友彦(2016)『歴春ブックレット信夫3 幻の福島城』歴史春秋社.

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