小僧丸義宣の墓の来歴
宮城県北東部、石巻湾に臨む海岸部に位置し、江戸期には藩米を江戸へ積み出す河口湾として繁栄した石巻市。市域北部、北上川と追波川の分岐点東側に旧大森村(現石巻市大森)があり、北上川南岸のかつて辻堂と呼ばれた地域に、伊達稙宗の次男、伊達小僧丸義宣の墓が残されています。
小僧丸義宣は伊達稙宗の次男で、稙宗の養子政策により大崎氏に送り込まれましたが、天文の乱の影響で義宣の稙宗派と晴宗派が対立。天文十九年(1550)危険を感じた義宣は稙宗の三男牛猿丸(葛西晴清)がいる葛西氏のもとに亡命を図ろうとしますが、領内の辻堂に差し掛かった処で大崎家の刺客に討たれたといわれています。
小僧丸義宣の碑
墓碑を古記に徴するに現今の碑石は第二回の建設にかゝりたるものなり。其義宣埋葬の当時は何を以て墓印とせしやは今に於て精はしく考ふる能はざれども恐らくは一杯の土饅頭かさなくば一枚の卒塔婆にて英魂を慰めたりしならん其後七十余年を経て明君伊達政宗公に至り初めて建碑のことありたりしなり。之れ即ち安永二年書き上げの大森風土記にある小住丸義宣の墓にして建立寺五世코크関山の代なり。
小僧丸義宣の墓は村の西北方北上川堤防字本町囲にあり、塚上自然石にて高さ五尺巾三尺の碑にして碑面は左の如し。
『小僧丸義宣
玉龍院輝山道宣大居士
依国命寛永五戊辰五月建立寺五世 関山立之』義宣は天文十九年五月二十日逝去す云々。右寛永五年建設の墓石天明の頃流失したるものかはだ破砕したるものか其墓石を失したるより終に寛政五年再び第二回の建碑とはなりたるものにして実に現時の墓石之れなり。是れ建立寺十二世鳳林の代なり。
『丑年三月七日
『桃生郡誌』
小僧丸義宣墓
玉龍院殿輝山道宣大居士
奉依国命造立碑以法事修行
建立寺十二世鳳林謹書
小僧丸義宣の墓へのアクセス
- 〒986-0121 宮城県石巻市大森本町
- 石巻線「佳景山駅」より車で16分
- 三陸自動車道「河北IC」より車で5分
- 県道33号線(石巻河北線)から北東方向の脇道に入ってすぐに標柱あり