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笹谷峠

古歌で知られる有耶無耶関跡がある藩境の峠で、慶長出羽合戦において最上義光の援軍要請に応じた際や、最上家の改易で保春院を仙台領内に引き取る際にもこの笹谷峠が使われた。

笹谷峠の来歴

笹谷古道入り口(笹谷~笹谷峠一里十八丁)約六㎞

この古道は、奥州街道から出羽街道へ抜ける峠道で、笹谷から長い急坂が続き十二月初めに降雪があり、翌年四月中頃まで厳しい寒気と二㍍余に及ぶ豪雪と西から吹きあげる吹雪によって交通が途絶し、道に迷い寒さにとじこめられて凍死したものが多かった。しかし、この街道は仙台と山形を結ぶ最短距離であることから、二口越えとともに利用され、南北朝から室町時代にかけてこの街道が陸奥と出羽の横断路として利用されてきた。戦国時代、特に天正年間(一五七三~一五九二)山形の最上氏が伊達氏と対立するようになるとこの峠は両者の攻防の焦点となった。元和八(一六二二)年最上氏改易没収処分になり、仙台藩の出動部隊がここを通行するなど、慶長・元和年間はこの道が出羽方面からの通路となっていた。ここ「坂元沢」より杉林を横切ると二基の馬頭観音碑「天保十四(一八四三)年・安政二(一八五五)年と刻銘」 を登ると、「下栃」「上栃」と呼ばれる二本の大木に出合う、更に急な曲りの坂道には左右二本に分かれ交差し当時の盛んな往来が偲ばれる。行き来した人馬がのどを潤した「函水」、これからあの岩道を登るというと、馬が涙を流したと伝えられる「駒泣かせ」を過ぎ、奇怪な伝承をもつ「化け石」を過ぎ、六角沢と歩を進めていくと強風で馬が荷物を背負ったまま谷底に吹き飛ばされたという「吹き越し」、やがて平坦な「乾平」ここより北西方向に仙住寺跡が開けてくる。地蔵坂を登りきると左手に一体の地蔵尊を拝むことができ、右折間もなく「有耶無耶の関跡」・「八丁平」に到達する。

平成十六年十一月 川崎町教育委員会

【一七三】最上義守書状

先度御注進候条、及懇答候キ、参着候哉、抑其口取乱之由、相聞得候間、則笹屋口致出張候、然処去廿八日限書中、当月六□到着候、随而懸田家風逆意之族候之故、石母田之地被引除候刻、被及一戦、敵数多被計捕之由、被露紙面ニ、満足無極候、将又此口之事者、国分方申合、涯分可致其将候、於于爰元一点無余義候条勿論候、其口御縺干要第一候、諸余従氏家伊予守所、可申越候条、令略筆候、恐々謹言、

   (天文十三年ヵ)
    卯月七日 源義守(花押)

   (稙宗)
 謹上 伊達殿

『大日本古文書 家わけ 三ノ一 伊達家文書之一』

性山公治家記録

天正二年四月条

◯廿一日乙丑小山田筑前〔諱不知〕奥州柴田郡笹谷口最上領ノ境目警固番仰付ラル

天正二年五月条

◯廿三日丁酉村山郡楢下ヘ要害普請ノタメ御出楢下ハ元最上領ナリ今度御手ニ属ス因テ廿六日マテ毎日御出普請アリ◯亘理源五郎殿重宗ヘ御書遣サル其趣不図最上口ヘ出馬シ給フニ付キ其ノ口輩篠谷口ヘ可罷越ノ旨仰遣サルノ間早々彼口ヘ打越ラレ各相談ヲ以テ最上ヘ相動カルへシ其上ニ於テ手配リノ事アラハ重テ申上ラルへキノ由著サル

『伊達家治家記録 第1』

貞山公治家記録

慶長五年九月条

◯十七日丁丑伊達上野介殿今日出陣柴田郡砂金ニ宿陣セラル此後砂金ヨリ最上境柴田郡篠谷マテ打越ラレ此所ニ逗留シ諸勢ノ到着ヲ待居ラル 当家ヨリ最上ヘ加勢遣サル由ヲ早速長谷堂表ノ敵陣ニモ見セ又ハ最上勢ニ力ヲ付クヘキト人数少々篠谷峠ニ打登セ旗指物ヲ立並へシムト云云

元和八年九月条

◯六日己亥 御母公今度最上ヨリ仙台ヘ御移ニ就テ 公ヨリ御迎差上ケラルノ旨片倉小十郎山岡志摩方ヨリ書状ヲ以テ申上ケシニヨリ今日御文ヲ賜フ左ニ載ス

(中略)

此後 御母公最上ヨリ笹谷峠ヲ経テ仙台ヘ御移リ此時御迎トシテ最上マテ宮内因幡常清并ニ武頭大町宮内重吉飯淵尾張〔諱不知〕其外数多差遣サル御境目マテ富塚内蔵信綱遠藤式部玄信ヲ遣サレ迎ヘ泰ラル〔十日以後日不知〕

『伊達家治家記録 第1』

【1070】伊達(留守)上野介政景宛書状

(袖追書)
身もかなふたつと」哉らんにて候、乍去』見合、白石口・相馬口ニ」人衆丈夫ニ籠置、」自身可参かと存候、」佐竹よりも」使者御さ候、何やうニも」入魂有度」にて候間、相馬事も」佐次第たるへく候と存候、」かしく、

其元様子追々」承度候〳〵、

一被見合、さゝやを」被打通、せきね迄も」御越可然候欤、

一最上之人衆も、存候」より多候由申候条、」敵陣あげはなとへ」しかけ候事ハ、成間敷候」哉、各兵談此時候、

一陣取かため候処なとへ、」聊尓ニ被取懸候事、」必不可然候、扨又」引陣ニも候者、あらと』境之切所ヘ追付、」是非々可被討果候、

一明日又、大ゑたさつまニ」人衆数多相添、」遺可申候、惣人衆も」はや昨今ニ無際」限懸付申候間、追々」可遣申候、可御心安候、」恐々謹言、

巳刻
(慶長五年)九月廿一日 政宗(花押)

(ウワ書)
「 上野介殿 」

『仙台市史 資料編10 伊達政宗文書1』

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笹谷峠へのアクセス

  • 〒989-1502 宮城県柴田郡川崎町今宿仙人沢
  • 山形自動車道「笹谷IC」より車で13分
  • 山形自動車道「関沢IC」より車で10分

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