広河原古戦場跡/首塚の来歴
県東南部、羽州街道の宿場町として栄え、昨今かみのやま温泉で夙に知られる上山市。市域の西南端、旧置賜郡(掛入石)中山村と旧村山郡川口村との境目に物見山〜高岡山があり、その南麓の峠道には、慶長五年(1600)の出羽合戦で戦死した兵卒らを葬った首塚が残り、その傍に供養碑が建てられています。




慶長五年九月十七日、直江兼続は、本村造酒丞・清水三河守らを先陣、中山城主横田旨俊を後陣として上山方面への出陣を指示。しかし、慣れぬ敵地の合戦で不利となり、当地へ引き上げたところを最上勢に挟撃されたといい、上杉勢は大将の草刈志摩守を討ち取るも、双方には多くの戦死者が出たといいます。






最上方の戦死者一八五名、上杉方の戦死者二三〇名とされ、この時の戦死者を葬るため、最上領と上杉領との境目である当地に築かれたのが首塚で、後年誰にも顧みられることが無くなっていましたが、昭和四十二年九月三日、当時の我孫子山形県知事の揮毫による首塚の碑が建立され、除幕式が行われました。
広河原古戦場跡
高岡山の麓、前川流域のこの一帯で、慶長5年(1600)9月17日、上杉家老、直江山城守兼続は、中山城主、横田旨俊を後陣に、本村造酒丞、清水三河守を先陣に足軽100人を率いて、山形を攻めるため上山高松方面へ出陣を命じた。だが、敵地、最上領での戦いで不利となり、楢下口から小穴を経て棒沢への近道を引き揚げて来た時、大勢の最上勢が広河原に陣を取り襲ってきた。中丸太郎左衛門、平塚清七郎、万年与左衛門、神成喜六ら数十人が迎え打ち激戦となり、最上勢の大将、草刈志摩守を鉄砲で撃ち倒し、討たれた最上勢は山形に引き返した。この広河原合戦で多くの戦死者が出たので、その霊を鎮めるため、最上、上杉の双方で境界に首塚を築いた。
平成 12年12月 中山地区会
『現地案内板』より
また、かつては伊達領と最上領との境目でもあったため、天正十六年(1588)の大崎合戦で、政宗の母義姫が輿を寄せた中山峠と考えられていましたが、近年は川樋からかつて中山と呼ばれていた「元中山」に至る峠道がそれで、最高所の尾根筋東側にある岩部山館が「中山要害」だったとも考えられています。
首塚の由来
慶長五年、関ヶ原の天下分け目の合戦の時、山形城主最上義光は、徳川家康に味方し、伊達政宗と共に後方から上杉景勝を牽制する作戦に出た。上杉の将直江山城守兼続(米沢城主三十万石)は急ぎ会津より米沢城に帰り、最上攻撃の軍議を整え、慶長五年九月十六日上山城政撃の作戦を軍評定により決した。
翌九月十七日早朝第一隊は本村造酒丞親盛、第二隊は篠井泰信、第三隊は横田旨俊をそれぞれの将として陣を整え、川口から赤坂部落「上の台」附近に陣を構え最上軍に攻撃をかけた。
即ち、一隊は中山城から川口を経て赤坂に出た。別隊は尖山から小穴に出る。残りの隊は二井宿から柏木、小穴峠を越えて来た。そして石曽根、高松、藤吾、阿弥陀地、細谷より小穴にかけての一帯が戦場と化した。
一方最上軍は、上山城主里見民部(越俊の子)及び山形城より派遣された草刈志摩守を将とする。接軍と一体となって上杉軍と猛烈な白兵戦を展開した。
この戦いで第一隊の本村造酒丞親盛は、「上の台」において討死した。
そのなきがらを大将塚に葬ったと伝えられる。今は一本の老松と自然石が昔を語るのみである。
その時、大将と共に勇敢に戦った兵卒多数が大将塚一帯にて戦死したと云う……世にいう「物見山の合戦」のいかに激戦であったかを想起させるものがある。
本村造酒丞親盛は大将塚に、そして運命を共にした諸卒の霊は首塚に葬られたと伝えられている。
「中山大字棒沢字首塚」がこの場所である。ここに有志相はかり、首塚の碑を建て三七六回忌法要を営みその霊を供養し後世に伝えるものである。
昭和四十二年九月三日
上山市観光協会 有志一同建立平成二年九月二十五日
『現地案内板』より
正偲会(再建)
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首塚へのアクセス
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参考文献
- 角川日本地名大辞典編纂委員会編(1981)『角川日本地名大辞典6 山形県』角川書店.
- 長井政太郎編(1990)『日本歴史地名体系6 山形県の地名』平凡社.
- 保角里志(2019)『最上義光の城郭と合戦』戎光祥出版.
- 保角里志(2020)『山形の城を歩く』書肆犀.
- 保角里志(2021)『改訂新版 東根城の話』北の風出版.
- 保角里志(2022)『戦国山形の合戦と城』無明舎出版.