松島城(日本三景展望台)の来歴
宮城県中央部に位置し、平安期以来幾多の歌に詠まれてきた日本三景、松島。松島海岸五大堂付近から瑞巌寺北隣の陽徳院山門に向かう道路の両側に、藩政期に水主衆が集住した水主町があり、水主町手前の眺望ヶ丘と称される丘陵上には、松島湾内と外洋の景を一望できる展望台、日本三景展望台があります。
月見崎坊・汀坊 時代
この展望台が聳える丘陵は、かつて天台宗時代から五大堂の祭事を司ってきた月見崎坊・汀坊の二坊があった場所で、鎌倉時代中期に延福寺が円福寺(後の瑞巌寺)に改名され、天台宗から臨済宗に改宗された後も、二坊には密かに僧徒が残り、引き続き天台宗として五大堂を管掌していたといわれています。
太白峰 天童庵 時代
寛永年間(1624-1644)瑞巌寺の雲居禅師が二坊を瑞巌寺の末寺に改め、後に済舟という僧がその旧跡に小庵を建立。西北隅に天童と称された宮千代という稚児の墓があったことから、庵は天童庵と名付けられました。貞享二年(1685)には鵬雲禅師が庵を修造して自らの隠居所とし、開山第一世となりました。
松島館(白鴎楼) 時代
太白峰と号す天童庵は、本尊に千手観音、傍に鵬雲禅師の寿像が安置されたと伝わるも、明治維新後に廃絶となり、その一切は不詳となっています。明治二十二年(1889)頃、跡地には倶楽部として使用された松島館が建築されますが、同四十五年(1912)観月楼背後の丘陵に旅館白鴎楼として移築されました。
松島観光ホテル 時代
その頃から、順次、地元工務店によって松島城(現在の日本三景展望台)の建設が始まり、昭和二年(1927)頃には「松島観光ホテル(設計:堀江安五郎氏、施工:堀江工務店)」として落成しました。唐破風を架した玄関の両脇に火灯窓を設けるなど、玄関広間は仏堂的な雰囲気を併せ持っていたといいます。
松島観光ホテルは、客室大小三十室、壱之丸には現在も残る松島展望閣(日本三景展望台)、弐之丸(本館)と参之丸(別館松鶴楼)には客室棟、本館裏には三百畳敷の大広間、更に多賀城址瓦や国分寺伝両界曼荼羅などの宝物を収蔵する懐古館、園遊会に最適な天然庭園である松華園などが付属していました。
太平洋戦争末期、本土爆撃に備えた学童疎開が始まると、昭和十九年(1944)八月から疎開児童の受入れが始まり、松島観光ホテルでも彼らの集団生活が始まりました。戦後の昭和二十六年(1951)十月二十七日には、上皇陛下(明仁上皇)が学習院の修学旅行で松島を訪れ、松島観光ホテルに一泊しました。
松島城 日本三景展望台
昭和から平成にかけて、五大堂真向かいの丘、全松島鳥瞰の中心点である眺望ヶ丘で営業を続けてきた松島観光ホテルでしたが、平成十五年(2003)にホテルとしての営業を終えると、壱之丸・参之丸は残されるも、本館であった弐之丸は取り壊され、展望閣は日本三景展望台として存続することになりました。
存続が決まった展望閣は、各所に伊達家の家紋「竪三引両」が配され、楼上には「宝華林」と揮毫された扁額が掲げられています。昭和八年には、中村仁寿氏によって「正岡子規歌碑」及び「送支倉常長行羅馬」と題す伊達政宗の漢詩が刻まれた「藩祖公之詩碑」が建立され、今も壱之丸南端に残されています。
正岡子規歌碑
涼しさや
嶋から嶋へ
橋つたひ明治二十六年 夏 子規
『現地石碑』より
昭和八年七月建立 中村仁寿
藩祖公之詩碑
送支倉常長行羅馬 伊達政宗
邪法迷邦唱不終 欲征蠻國未成功
圖南鵬翼何時奮 久待扶搖萬里風紀元二千二百七十三年 慶長十八年
西暦千六百十三年井内阿部勇之烝謹刻
『現地石碑』より
昭和八年建之 中村仁寿
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松島城(日本三景展望台)へのアクセス
- 〒981-0213 宮城県宮城郡松島町松島町内115
- 仙石線「松島海岸駅」より徒歩8分
- 三陸自動車道「松島海岸IC」より車で7分
- 入場料金:大人300円/学生200円
- 日本三景展望台の敷地内に「五大堂前駐車場(有料)」あり
参考文献
- 松島町誌編纂委員会編(1973)『松島町誌(第二版)』松島町.
- 角川日本地名大辞典編纂委員会編(1979)『角川日本地名大辞典4 宮城県』角川書店.
- 越野武・坂田泉(1985)『近代建築ガイドブック 北海道・東北編』鹿島出版会.
- 大塚徳郎・竹内利美編(1987)『日本歴史地名体系4 宮城県の地名』平凡社.
- 松島町史編纂委員会編(1991)『松島町史(通史編Ⅰ)』松島町.
- 松島町史編纂委員会編(1991)『松島町史(通史編Ⅱ)』松島町.
- 松島町史編纂委員会編(1989)『松島町史(資料編Ⅰ)』松島町.