増上山 大願寺の来歴
仙台城下町のひとつで、北二番丁西端の新坂から城下北部の北山輪王寺門前に至る通り、旧新坂通(現青葉区新坂町ほか)。寺屋敷が並ぶ同通沿いの北部、浄土宗荘厳寺の南脇に大願寺前丁が西に延び、その街路西端の突き当たりには、政宗の葬礼場跡を寺地として開山された寺院、増上山 大願寺があります。
慶長六年(1601)諸国修行の道すがら仙台に立ち寄った良盛格外和尚は、当時立町にあった太子堂を庵として説教勧化に努め、やがて帰依者が三百余人にも及び、自ずと「太子院」と称される迄に至ったため、同八年(1603)信徒らの援助により、太子堂を改め「増上山 正雲院 三縁寺」として開山しました。
寛永十三年(1636)五月二十四日、伊達政宗が江戸の桜田藩邸で七十年の生涯を閉じると、前以て殉死の許しを得ていた家臣十五名中半数が直ちに仙台に向かって出発。政宗の亡骸は束帯姿、朱、水銀、蛎灰、塩で詰め固めて納棺され、棺を乗せた駕籠は即夜江戸を発し、残りの殉死者がそれに付き従いました。
六月三日、道中九日を要し、捐館といって仙台城には入らず、北山の覚範寺に棺を安置し、翌四日、政宗の遺言に従い、亡骸は経ヶ峰に埋葬されました。覚範寺では、これより二十日間にわたって中陰の法要が営まれ、最終日の六月二十三日、北山南麓の原野(現在の大願寺)において葬儀が執り行われました。
亡骸のない空棺で営まれた葬儀は、午後三時には終わり、空棺は火屋に移され、保春院開山の清岳宗拙和尚が松明で点火し、葬具と共に焼却されました。焼却後の灰は銅器に納めて円塚を築き、方形の土塁と堀を廻らして、立ち入りを禁じました。これは灰塚と称され、全国的にも稀な葬制であったといいます。
こうした葬制は伊達家特有のものとされ、四代藩主綱村の代まで行われますが、「これは墓が暴かれることを恐れて埋葬を秘し、空棺で執行する戦国の遺風であり、泰平の世に大根一本植えられぬ空地が増え続けるのは無益である」として、後の五代藩主吉村により、従来の葬制は廃止されることになります。
葬儀後の四世良観和尚の時、政宗の帰依が深かった事から、葬礼場を寺地にと願い、灰塚を守ることを条件に当地を拝領、寺号を「大願寺」と改めました。また、二代藩主忠宗手植えの松に因み、院号を「松王院」とし、召出格上席、領分内在方寺院の触頭を仰せ付かり、寺領六十石を付されて礼遇されました。
かつて、極めて広壮で、現在の場所よりやや後方にあったという本堂は、延享三年(1746)の火災で拝領品、什宝など一切を烏有に帰し、再建された堂宇も明治五年(1872)に再び焼失。現在の堂宇は昭和八年(1933)の落成で、本堂は檀越針生久助の建築寄進、庫裡位牌堂は檀徒一堂の寄進であるといいます。
大願寺の山門は、黄檗宗の萬寿寺境内にあった四代藩主綱村夫人仙姫(万寿院)の霊屋門を明治初期に移建したもので、扉には家紋「隅切角に三の字」が配されています。また、新坂通からこの山門に至る参道は、元々は通町から続く長い参道であったので、人々からは「大願寺の馬場先」と称されていました。
尚、仙台城下の灰塚は、既述の藩祖政宗の灰塚が大願寺に、保春院義姫の灰塚が永昌寺に現存するも、大法寺裏手にあった二代忠宗の灰塚は三条中学建設時に、伊勢堂山の裾野「首切り松」と呼称された三代綱宗の灰塚は北山から伊勢堂下に道路を開設する際に、其々跡形もなく崩され、現在は残っていません。
本尊
- 阿弥陀如来坐像
宝物
- 聖観音像(行基または弘法作、仙台三十三観音 第七番札所、元禄三年星休明寄進)
仙台市保存樹木
- 指定番号25「大願寺のたらよう」樹高9.3m、株立ち、指定樹齢250年
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増上山 大願寺へのアクセス
- 〒981-0934 宮城県仙台市青葉区新坂町7−1
- 仙山線「北山駅」より徒歩10分
- 地下鉄南北線「北四番丁駅」より徒歩25分
- JR「仙台駅」よりバスで「北山三丁目」下車、徒歩3分
- 東北自動車道「仙台宮城IC」より車で12分
参考文献
- 藩祖伊達政宗公顯彰會編(1938)『伊達政宗卿傳記史料』藩祖伊達政宗公顯彰會.
- 仙臺市史編纂委員會編(1953)『仙臺市史7 別篇5』仙臺市役所.
- 三原良吉(1971)『仙臺郷土史夜話』宝文堂.
- 大場貞一編(1975)『宮城県寺院大総覧』宮城県寺院総覧編纂会.
- 角川日本地名大辞典編纂委員会編(1979)『角川日本地名大辞典4 宮城県』角川書店.
- 大塚徳郎・竹内利美編(1987)『日本歴史地名体系4 宮城県の地名』平凡社.
- 石垣昭雄編(1987)『伊達政宗公ゆかりの寺院(仙台編その一)』宮城文化協会.
- 八幡地区まちづくり協議会編(2007)『杜の散歩道 仙台市北西部散策ガイド』大崎八幡宮.
- 吾妻信夫編(2018)『仙台藩を彩った異才たち』北山ガイドボランティア.