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松蔭山 光明寺

伊達家始祖朝宗夫人結城氏の菩提寺で、境内には伝支倉六右衛門常長の墓とルイス・ソテロの碑が残る。

松蔭山 光明寺の来歴

仙台城下町のひとつで、西方の中山方面から東に延びる台原段丘の西半に位置し、東昌寺門前を経て堤町に至る町、旧通町(現青葉区通町1〜2丁目ほか)。伊達氏縁故の寺々が建ち並ぶその町の東端には、伊達家始祖朝宗夫人結城氏の菩提寺で、支倉常長の墓所としても知られる、松蔭山 光明寺があります。

光明寺は、千手観音を本尊とし、弘安六年(1283)伊達氏四世政依が始祖朝宗夫人結城氏(光明寺殿了修願善尼大姉)の菩提を弔うため伊達郡旧光明寺村に建立した寺で、政依に請われた山叟慧雲和尚により東昌寺、満勝寺、観音寺、興福寺と共に開山され、京都五山、鎌倉五山に倣って伊達五山と称されました。

幾度の火災により、開山以降の詳細は不明な点が多いものの、伊達政宗による仙台築城の四年後、慶長九年(1604)現在地に移転、古岫和尚を仙台における中興開山としました。寛永元年(1624)火災により一切を焼失するも、政宗により壮麗な伽藍が再建され、藩政期は一門格で寺領百二十七石を賜っていました。

維新後藩の庇護を失うと、塔頭の少林院、寿福院、大悲院、竜雲院、紹妙院、妙法軒、竜雲軒は悉く廃絶となり、明治十三年(1880)十二月には自火を起こし、政宗により再建された堂宇は再び灰燼に帰しました。爾来、仮堂を経て、昭和四年(1929)庫裡、同七年(1932)には現在の伽藍が落成となりました。

本堂西裏には、慶長遣欧使節支倉六右衛門常長の墓と伝わる五輪塔と宣教師ルイス・ソテロの顕彰碑が建立されています。慶長十八年(1613)伊達政宗の命によって牡鹿半島月ノ浦を出発した常長でしたが、元和六年(1620)外交的成果を収めることなく仙台に無念の帰国。以後、常長の動静は不詳となります。

光明寺の常長の墓は、明治二十七年(1894)大槻文彦博士らにより発見され、五輪塔の断片、奉献支倉斎常信(常長の孫)と刻まれた石灯籠、遼遠国へ行き帰りし人の墳墓との伝承から常長のものと考証されましたが、明治九年の宮城博覧会開催前に大郷桂蔵寺から改葬されたとも伝わり、判然としていません。

また、常長の墓所に関しては、光明寺のほか、大郷町東成田山合の山中(支倉メモリアルパーク)、川崎町支倉の円福寺、大和町吉田西風の山中、栗原市栗駒文字の洞泉院、川崎町本砂金太田山の常正寺別院跡、奥州市胆沢小山八幡堂の八幡神社、加美郡色麻町一の関など、領内の多くで考証が行われています。

本尊

  • 千手観世音菩薩

仙台市保存樹木

  • 指定番号10「光明寺の菩提樹」樹高16.0m、幹周2.5m、指定樹齢250年(欠番)

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松蔭山 光明寺へのアクセス

  • 〒981-0916 宮城県仙台市青葉区青葉町3−1
  • 仙山線「北仙台駅」より徒歩5分
  • 仙山線「北山駅」より徒歩23分
  • 地下鉄南北線「北四番丁駅」より徒歩16分
  • 東北自動車道「仙台宮城IC」より車で19分

参考文献

  • 仙臺市史編纂委員會編(1953)『仙臺市史7 別篇5』仙臺市役所.
  • 宮城県寺院総覧編纂会編(1975)『宮城県寺院大総覧』宮城県寺院総覧編纂会/山形.
  • 角川日本地名大辞典編纂委員会編(1979)『角川日本地名大辞典4 宮城県』角川書店.
  • 大塚徳郎・竹内利美編(1987)『日本歴史地名体系4 宮城県の地名』平凡社.
  • 石垣昭雄編(1987)『伊達政宗公ゆかりの寺院(仙台編その一)』宮城文化協会.
  • 樫山巌(1993)『支倉常長の謎』創英出版.
  • 樫山巌(1993)『支倉常長の総て』金港堂.
  • 仙台市博物館(1993)『平成4年度 仙台市博物館調査研究報告 第13号(宮城県大和町西風所在の五輪塔 支倉常成・常長との関わりの可能性)』仙台市博物館.
  • 切田未良(1994)『支倉常長と胆沢町 常長終焉地を探る』秋桜社.
  • 栗原郷土研究編集委員会(2006)『栗原郷土研究7 第29号~第32号(支倉常長墓所の謎)』栗原郡郷土史研究会.
  • 八幡地区まちづくり協議会編(2007)『杜の散歩道 仙台市北西部散策ガイド』大崎八幡宮.
  • 仙台市建設局百年の杜推進部百年の杜推進課編(2009)『杜の都の名木・古木 平成20年度版』仙台市建設局百年の杜推進部百年の杜推進課.
  • 吾妻信夫編(2014)『仙台藩の埋もれた遺臣たち』北山ガイドボランティア.

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