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仙台領南境の防衛拠点で、慶長七年十二月末から代々片倉氏が居城とした

宮城県最南部、阿武隈川支流の白石川と斎川に沿う白石盆地の中心都市、白石市。市域中央、戦国末期の蒲生氏支配の頃は一時増岡とも呼ばれた旧白石本郷(現白石市益岡町・西益岡町・城北町・大手町ほか)があり、村域西部の小丘陵には、仙台領南境を守る要所で、代々片倉氏の居城となった白石城があります。

白石城は標高七六㍍の通称城山に位置し、最頂部の本丸西北隅に三層の大櫓があり、以下六丸、五曲輪で構成されていました。北・東・西には水濠を巡らせ、南は堀切で兀山はげやまに続く丘陵を切断、塁壁の殆どは土塁で木柵もくさくを廻らすなど、中世的城館の名残を残した攻めの砦といった性格のものであったと云います。

慶長五年(1600)家康は東国諸大名に上杉氏討伐を命じ、自らも江戸を出発。伏見に居た政宗は直ちに帰国の途につき、上杉領を避けて浜通りを迂回し、名取郡北目城に到着。白石城攻めの指揮を取り、岩沼、四保しのほ経由で、白石川河畔の丘陵(陣場山館跡)に本陣を構え、城を囲むように各部隊を配置しました。

愛宕山麓の一本木(一本木遺跡)には、後に白石城主となる片倉小十郎、中屋敷(中屋敷陣屋跡)に白石若狭、八幡坂(八幡坂西陣屋跡)に高野靭負、新館跡に山岡志摩、銚子盛→大畑前に石川遠江、手代山(寿山遺跡)に伊達安房、延命寺前に伊達安芸、熊原に亘理源五郎、菅生田に伊達上野らが布陣しました。

一方、上杉勢は白石城代甘粕景継あまかすかげつぐが会津に出向き不在。甥の登坂式部のぼりざかしきぶらが多数守りを固めて奮戦しますが、町屋、外曲輪、三ノ丸一帯が焼かれ、本丸に追い詰められた上杉勢は遂に降伏を決意。石川昭光と片倉小十郎が連署して城兵の身命を保証する誓約書を与え、投降を認めた為、政宗は白石城を占拠しました。

慶長七年(1602)十二月末、片倉景綱は政宗から白石城を賜り刈田郡一万三千石を拝領しますが、病床にあって直ちに亘理から白石へと移ることができず、神宮寺村の三品家に滞留。略儀の越年を済ませて刈田郡宮村の佐藤宅に移り、吉日を選んで白石城に入城。以後、明治維新まで代々片倉氏が居城としました。

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市指定史跡 白石城跡へのアクセス

  • 〒989-0251 宮城県白石市益岡町
  • 東北本線「白石駅」から徒歩で16分
  • 東北新幹線「白石蔵王駅」から車で7分
  • 東北自動車道「白石IC」から車で9分
  • 白石市役所北側に無料の公共駐車場(城下広場:みにほっぷ)あり

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kenc0224

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南奥羽の名所旧跡を悠々閑々と訪ね歩き、物見遊山に日を暮らす掃苔家で巡拝家、偶に登城家なブロガー。掻い撫での道楽なため歴史は苦手。大河は、独眼竜政宗、炎立つ、八重の桜(会津編)、真田丸がお気に入り。雨降りの日は籠居して、家紋の図案を物します。