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人取橋古戦場跡

人取橋、桝形、観音堂間を主戦場とし、太田原合戦とも称された戦場の跡地。

人取橋古戦場跡の来歴

福島県中通りのほぼ中央部、安達太良連峰の支峰大名倉山塊と本宮盆地南半、阿武隈山地西麓とからなる本宮市。東流する瀬戸川流域に旧安達郡青田村(現本宮市青田)があり、かつて太田ともいわれたこの地には、佐竹・蘆名氏らの連合軍と伊達軍との戦場跡、人取橋古戦場があります。

天正十三年(1585)十一月、二本松畠山氏救援のため、佐竹義重を盟主とした蘆名、岩城、石川、白川、二階堂、相馬氏らの諸氏は須賀川に結集。各地の伊達方諸城を攻め落とし、同月十六日には五百川南岸の前田沢南ノ原に陣を構え、伊達軍との対決に備えました。その数およそ三万五千だったとも伝わります。

情勢を察知した政宗は七千余の軍勢を率い、小浜から岩角城を経て本宮城に入り、同月十七日、現在の日輪寺(明治三十七年の火災により本宮宿南町から現在地に移転)がある観音堂山に本陣を構えました。観音堂山は日輪寺墓地から国道四号横断高架橋付近をいい、国道は観音堂山を分断して敷設されました。

佐竹義重の主力は、荒井村と青田村にまたがる原野であった青田原の伊達軍に向かい、一帯で激戦が繰り広げられました。兵力で劣る伊達軍は敗色濃厚となり、鬼庭左月は危機を救うべく、人取橋を越えて奮戦するもついに討死。老齢であった左月は、甲冑は身に付けず、黄色の絹綿帽子姿であったといいます。

人取橋は、本宮宿太郎丸にある今の観音堂から、奥州道中と分岐し五百川本流の左岸に沿って西進する会津街道と瀬戸川とが交わる場所にあり、現在の橋とその位置は大差なかったと考えられています。橋の東方は幸寿塚(功士壇)という戦死者を葬った場所で、後年茂庭氏の子孫によって左月斎の墓碑が建立されました。

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人取橋古戦場跡へのアクセス

  • 〒969-1107 福島県本宮市青田茂庭
  • 東北本線「五百川駅」より車で5分
  • 東北自動車道「本宮IC」より車で3分

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